弟が初めて家にやってきたとき、俺はお世辞にも良い気分ではなかった。
当時十二歳という思春期真っ只中の頃だ。赤ん坊が家族に加わったからといって、大げさに喜べるはずもない。親を取られたという感覚だってあったろう。とにかく、生まれたばかりの弟に関しては、あまり記憶がない。
俺が弟という存在を認識したのは、両親が突然死して、俺たち兄弟が世界で二人きりになったときだった。
俺は寄宿舎に入るタイミングだった。十四歳の俺が、二歳の幼児を養えるはずがない。
この頃になると、俺は自分が育った街のシステムについて理解し始めていた。
街は巨大な塀に囲まれていて、塀の外に出られるのは一部の許された人間だけ。俺たちの両親はその一部の人間だった。だからこそ、外の世界で強盗に襲われて死ぬことになったのだが。両親の死は表向き事故ということになっていたから、弟はそう思っている。たぶん、あんまり興味もないだろう。俺は両親の顔を覚えているが、弟は覚えていない。弟のいない、家族三人の肖像画はあったが、家を出るときに捨ててしまった。死んだ人間の姿形を覚えていても仕方がないと思ったからだ。俺はたぶん、これから自分がどうやって生きていくのかだけで精一杯だった。
この塀の内側で生まれた者たちはみな、外の世界で『知識』を集めてくるための人材として養育される。俺もそうだったし、弟もそうなるはずだった。だから、親を失ったという理由で離ればなれで養育されることは、しばしばあり得ることだった。外の世界は、それほどまでに危険なのだから。
弟は街―――いや、『図書館』と呼ばれる塀の内側の世界の孤児院に送られた。
それからしばらく、俺の中で再び弟の存在は希薄になっていった。
転機が訪れたのは、ある長期休暇だった。
『図書館』の訓練生には、街の中の奉仕活動が要求されることがしばしばある。街のゴミ収集であったり、公共施設の慰労であったり―――どうやって知ったのか、俺の養育担当の教員は、俺を弟がいる孤児院の手伝いに宛がった。
見知らぬ子供たちに混じった弟は、やる気のない顔で立ち並ぶ訓練生たちのうちから、俺を見つけていたらしい。
そのときの弟の表情の変化を、俺は今でも思い出すことができる。
「にいちゃん!」
―――覚えていたのだ。一年以上も会っていない兄の顔を。
喜色を湛えて足に縋り付いてくる弟に、俺はへんてこな気分になった。
俺は弟を抱き上げたことはほとんどない。母に無理矢理持たされた、くらいだ。それどころか相手をした覚えすらほとんどない。何故弟が俺を兄として慕ったのか、本当に訳が分からなかった。
孤児院の職員が後で教えてくれたことには、弟はこの施設にいる他の子供たちと、仲良くやれていないということだった。
孤児院の手伝いとはいえ、子供と直接接する機会は少なかった。そんな時間の中で、俺はなるべく弟の様子を窺うようになった。弟は俺に気づくと、俺のところにやってくる。友達と遊んでいても、それを放り出して―――今から思えば、あれは友達ではなかったのかもしれない。どういった点で他の子供たちに馴染めないのか、当時の俺にはよく分からなかったが。
だが、その頃には薄ぼんやりと、俺は弟に対する思いが変わっていた。
弟が両親と一緒に過ごすことができたのはたったの二年だけだ。彼も俺と同じで、死んでしまった彼らを、覚えていても仕方がないと感じてしまったのかもしれなかった。悲しいことだが、弟が俺にすがった理由は、きっとそこにある。
俺は、両親と十四年、過ごすことができた。
だったら弟に与えられなかった十二年を、弟に返してやりたい。
―――孤児院の手伝いが終わってからも、俺はしばしば、弟に会いに行くようになった。
弟に菓子やおもちゃを与えると、他の子供たちの反感を買う。
ただでさえ弟は、俺という明確な保護者がいることで、他と一線を画していた。弟はそれを盾にするような子供ではなかったが、周りに攻撃されるには十分な理由だった。
数年が経ち、学校を卒業した俺は、訓練生から図書館の『調査員』というエージェントとして、外の世界に出られるようになっていた。
自分で言うのもなんだが、俺は図書館の中でも優秀で、いわゆるエリートの道を歩くことを許されている。図書館は先天的あるいは後天的に優れた才能を持った者たちを、徹底して優遇するのだ。俺は訓練生時代から、何の後ろ盾もない自分自身を守るため、先天的才能がなくても印術を扱える、特殊な研究に被験者として参加していた。その能力があったからこそ、若いうちから外の世界を見ることを許されていたのだ。
四方を見渡しても青空が広がるばかりの草原に立つ。
外の世界は危険で、魅力的で、何より―――自由だった。
世界はこんなにも開かれているのに、俺が進むべき道は、たった一つ。
それを踏み外すには、俺はあまりにも塀の中の世界の住民に成り果てていた。
―――弟を庇うこともできず、自分たちと異なる弟を攻撃する子供たちの姿を、ただ見ていることしかできなかった。
弟が十二になり、孤児院を追い出されることになった。
追い出されるといえば聞こえが悪いが、孤児院がパンクしないための措置だった。もとより、弟には俺という保護者がいる。庇護してくれる何者も持たない子供たちの多くは、孤児院を出てすぐどこかの工房に徒弟入りしていたが、弟は『訓練生』として図書館の学校に通える。そのため、俺たち兄弟は実に十年ぶりに、一緒の家で生活するようになった。
弟は散々、俺と比較されたらしい。本人は頑張っていたようだが、そもそも俺の印術は普通と違って、無理矢理使えるようにしたものなので、弟に印術を使える才能があるはずがない。俺に印術を与えた研究者は、弟も被験者にしたがっていたようだが、それは俺が拒んだ。
代わりに俺は個人的に、対印術師の戦闘訓練を弟につけていた。弟は複雑な顔で、それでも俺の指導をさぼることなく受けていた。弟は学校の成績はあまり良くなかったが、要領が悪いだけで、真面目なのだ。
その真っ直ぐさ故に、欠落したものを許せないのかもしれない。
塀の中の世界が欠けているのか、弟が欠けているのか。それは未だに分からない。
あるとき、弟に友達ができた。
その少年は俺と同じく、後天的に印術を使うための研究の被験者だった。弟はそれを知らず、彼を印術師の卵として、尊敬していたようだが。友達の方は複雑だったろう。気が弱そうなその少年は、印術師という将来を約束されたエリートにもかかわらず、学校の中では虐められていた。
当然、弟は友達としてそれを庇う。元々好感度の低い弟は、友達ともどもいじめのターゲットになっていた。まあ、弟に関して言えば今更であるし、負けん気が強いので、この頃はケンカにもよく勝っていた。だいたい、素手同士の殴り合いだ。
そうやって、楽観的に見ていたのが良くなかった。
子供のケンカだ。だが、かたや印術という、極めれば国一つ吹き飛ばせる力を持つ子供なのだ。
それも、ようやく力のつきあい方を覚え始めた。そんな子供が、自己防衛のために印術を用いたら。
―――弟のクラスで印術の暴発事故が発生して、俺を含めた大人たちは事の重大さを思い知った。
「落ち着いているね」
事態の把握と収集を命令されて、俺は同僚―――例の研究の第一人者―――とともに、現場に向かっていた。
彼は眉をひそめる。
「―――弟さんがいるんだったろう。心配じゃないのかい」
俺は無言に徹した。
―――俺にとって弟が弱点になり得るというような発言を、不用意に誰かにするべきではないと分かっていたからだ。
事故は凄惨だった。死亡者が二人。怪我人が三人。たいしたことのない後者のうちに、弟は含まれていた。俺はこのとき人生で一番安堵した気がするが、やっぱりこの感覚を、誰かに話さなくて良かったとは思った。
弟の友達―――印術を暴発させた当事者―――も死亡した。印術を発動させるには、印石という特殊な媒介石が必要になるが、これの埋め込まれた片腕を起点として、片半身が吹き飛んでいた。
俺も一歩間違えばこうなるのだ。から恐ろしい風景に目を奪われている間もなく、事態の処理は早々と実施された。なぜなら、俺たちが被験しているこの研究は、『図書館』の中でも一部の人間にしか知られていない、アンダーグラウンドなものだったからだ。上に知られてはまずい。幸い、少年の印石は跡形もなくなっていたので、有耶無耶にすることはできたが。
事後処理に呼ばれたはずだったのに、俺は弟のケアという理由でその日のうちに家に帰らされた。
―――弟は部屋に閉じこもったままだった。
俺は自慢ではないが、家事が全然できない。弟に丸投げしているせいで、帰宅して晩飯が用意されていなければ、飢えるしかなかった。まあ、その日はさすがに仕方がないと、自分で食えるものを探そうとしたあたりで、棚から降ってきた食器にしこたま殴られた。
派手な音がした。痛みに唸る俺を呆れたように、部屋から出てきた弟が見下ろしてきた。無言のまま彼が別の棚から出してきた晩飯に、俺はさすがにばつが悪くなった。
俺の弟は、自分の責任だと思ったことを中途半端に投げ出したりはしない。友達やケンカ相手をこんな形で失って、傷ついていないはずがなかった。
俺はだいたい弟の考えていることは分かるが、彼の傷をどう言ってやれば癒やせるのか、そもそも癒やす方が良いのかは、分からなかった。
この頃には俺は、弟が塀の中の世界に馴染むのは無理だ、と思うようになってきた。俺は塀の中の世界はあまり好きではないが、好きではないからこそ、曖昧に付き合うことができる。弟はなんとか馴染もうと努力していたが、全力投球過ぎて、かえって自分の色が浮いてしまうようだった。俺は弟が、俺のように適当にやれる奴だとは思わなかったから、馴染めないなら馴染めぬままで、と放置してしまった。
これが案外、弟にとっては良くなかったらしい。
俺と比較され続ける弟は、自分が何者になればいいのか、この狭い世界の中では、自分で見つけることができなかったのだ。
友達はどうなったのか、と弟は小さな声で問うた。
すぐ病院に運ばれた弟は、多くを見ていないのかもしれない。友達のあまりの最期も、その後の『処理』のため、物のように研究所に運ばれていく姿も。
「……亡くなった」
なんと言えばいいのか分からず、端的にそう告げた言葉に、弟が短く息を飲んだのが分かった。
「彼は孤児だったか? ほとぼりが冷めたら、葬儀も行われるだろう。別れの挨拶くらいはできるだろうさ」
弟は無言だった。自分でも会心の冷たさだったなと思う言葉だったので仕方ない。
そしてすぐ眦を上げて、睨みつけてくる。
「あんた、他人事みたいだよな」
「……他人事だ」
同じ実験の被験者な上に弟が巻き込まれたとあっては他人事なはずもないが、俺はそう突き放した。
「もういい」
食ったら置いとけとだけ言い置いて、弟はとぼとぼと自室に戻っていった。
弟にとっての俺という存在も、変わってしまっただろうと思う。
唯一の家族で、保護者だった兄から、比較されて仕方ない存在へ。そして兄は、己を助けてはくれない『他人』同然のものへ。きっと、そう感じているだろう。
そうなるように、俺が仕向けた。
俺は漠然とだが、この狭い世界の外へ弟を放り出そうと考えていた。
十二年、弟のためにそばに居ようと決めた期間は、そのための準備期間だ。
そして、弟は自由な世界に旅立っていくだろう。だが、俺は一緒にはいけない。
だから、弟が俺を振り返ろうとも思わないくらい、遠い存在になろうと考えていた。
出来が悪くても『弟』だから。血縁があるから仕方ない。周りから囁かれる風評そのままに、俺は振る舞った。
弟はいつの間にか俺をにいちゃん―――兄とは呼ばなくなった。
それでいいと思った。
十二年より一年長くなってしまったが、ついにその日はやってきた。
塀の外に、調査員ではない人間が出て行くのは死ぬよりも難しい。簡単に理由を付けて騙くらかせるほど図書館は甘くない。だから正式な調査員となるための訓練という名目で、弟がこの塀の街を出て行くための手筈を整えた。勿論、この街に戻す気は俺にはない。弟にはまだ何も話していないので、また「お前は勝手だ」だの何だの文句を言われることになるのだろうが、関係ない。
俺は今日、その前日にこれを書いている。
自分の選択を後押ししたものが何なのか、整理をするつもりで。
明日迷わずにここを出て行けるように。
外の世界が弟にとって本当に良いものなのか、この期に及んでも俺には分からない。
俺は生まれ育った環境を、図書館を、ちっぽけな世界を捨てられない。たかだかそれだけのために、自由という理想を弟に押しつけて、追い出そうとしているだけなのかもしれない。
この選択を、俺は一生後悔する日が来るかもしれない。
だが、それでも。
無限に広がる世界に目と耳を開き、初めて得た自由の中で、お前が何かを選び取っていく姿を見られたら。
初めて世界を見たときに、俺が思ったことはそれだったのだ。
……、この封書をお前の机の上に置いていったのはそういう言い訳だ。
何かの拍子でお前が一人でこの家に戻ってきたときに、迎える者の代わりになるように。
願わくは、お前の目にこれが触れないことを祈っている。