その日は朝から、ちょっと調子が悪かった。
体温計で熱を測ってみると、平熱よりもちょっと高いくらいで。どうしようかと迷ったが、今日は収集のための探索だけで早めに帰ってこられるはずだったし、何より部屋の外で、もう既に準備万端の皆が待っていたから、慌てて飛び出した。
失敗だったなあと思ったのは、お昼を食べるために休憩することになった時。
ブルームさんの奥さんが作ってくれたおにぎりを目の前にしても、食欲が湧かない。
溜息を吐くアリルの様子にいち早く気付いたのは、やっぱりノアだった。
「アリル、大丈夫? 疲れたかしら」
表情は変わらないけど、どことなく心配そうに尋ねてくる。本当は第三層の寒い空気の中でちょっぴり気分が悪かったのだが、アリルは笑顔を繕った。
「平気です。おなか減りすぎて、元気がなくなってただけで」
そう言うと、アリルはおにぎりを口の中に押し込む。頑張って噛んで飲み込むと、ノアの表情がふっと柔らかくなった。
「無理はしないで」
「はい。ありがとうございます」
笑顔で応じる。アリルはギルドに一人しかいないメディックで、いわば唯一の回復役だ。多少体調が悪くとも、樹海に出なくちゃならない。
この程度、大丈夫。皆に迷惑はかけたくない。
そう思っていたら。
モンスターとの戦闘の後、皆の戦後手当てをして立ち上がった瞬間に、立ちくらみが起きる。
そこは地下十四階の水辺で。けれど、アリルの足元はふらつく。
あ、やばい、と思った時に、ぽすんと受け止められる感覚があった。
アリルを支えた腕は、レオンのものだった。
「おいおい、しっかりしろよ」
呆れたような低い声。前衛の彼が後ろにいたのは予想外だったが、何となく嬉しくなる。
礼を言おうと思って見上げると、レオンは突然訝しげな顔になった。
「うひゃ」
手袋をした手がアリルの前髪を掻き分けた。レオンの顔が近づいてくる。額同士がくっついたところで、ぱっと離れたレオンが盛大に顔を顰めた。
「うわ、あっつ!」
「なんだ、どうした?」
アリルがどぎまぎしていると、不意にブルームの笑顔が現れた。
「ちょっと失礼」
ブルームは素手で、アリルの額に触れた。と、彼も驚いたように目を見開く。
「わあ、これは熱、あるな」
「だ、大丈夫ですよ」
慌てて二人から離れると、アリルはぶんぶんと首を横に振った。そのせいでちょっと気持ちが悪くなる。
先を行っていたクルスとノアが戻ってきたのが、レオンの肩越しに見えた。
「熱ですって? やっぱり体調が悪かったの?」
「やっぱりって何だ」
その言葉に、レオンが反応する。
「この子、昼食の時にもちょっと、様子がおかしかったのよ」
「平気だよ」
アリルは笑顔を作ると、明るく続けた。
「多少熱があっても、私―――」
「馬鹿か、お前は!!」
レオンの怒号に、アリルは息を呑んだ。
「―――熱があるんなら、何で早くに言わないんだ!」
レオンは強くそう言うと、皆に振り返って片手を上げる。
「撤収だ、撤収。帰るぞ」
「ちょ……レオン!」
アリルは背を向けたレオンの袖を引いた。
「私、大丈夫だよ? 採掘場まであと少しな―――」
振り返ったレオンの、睨むような視線に射抜かれ、アリルは思わず口ごもる。
こんな目で見られたのは、初めてだった。
「お前はメディックなのに、自己管理も出来ないのか」
冷たく発された言葉に、アリルは俯いてしまう。
「レオン、言い過ぎよ」
「黙れ。撤収だ。糸!」
地面を睨む視界が滲んでくる。それをこらえるため唇を噛む。俯いたままで帰る際、ノアが優しく肩を抱いてくれているのが、その感触で分かった。
帰ってすぐ、アリルは施薬院にある自室へ放り込まれた。
看病してくれるノアだけが残ることになり、メンバーの全員が去っていってしまった直後、アリルはついに我慢の限界を越え、泣き出してしまった。
ノアは表情を緩めると、ベッドの隣の椅子に腰掛け、アリルの頭を撫でていた。
少し泣いて落ち着いた後に聞いたところによると、レオンのあの剣幕に驚いたのはアリルだけではなかったらしい。
ノアは、自分も含めて皆びっくりしていた、と教えてくれた。
「彼が怒鳴ったりするのは、珍しいわね。その理由は分からないけど、怒った理由なら私にも分かるわ」
「え……」
真っ赤になった目で見上げると、ノアは首を傾げる。
「分からない? 誰かさんが、体調が悪いのにそれを隠して探索について来たりしたからよ」
「う、それは……」
痛いところを突かれ、アリルは口ごもる。
ノアはアリルの額を軽く小突くと、言った。
「しばらく寝ていなさい。レオンには私から言っておくから。けれど、治ったらちゃんと謝りに行きなさいね」
「はい……」
布団にもぐりこみながら、しゅんとして返事すると、ノアは微笑んだ。
レオンはやはりと言うか何と言うか、酒場にいた。
「アリル、泣いていたわよ」
突然背後からかかった声よりも、その内容には驚いたようで、レオンは目を丸くする。
カウンター席の、レオンの隣に腰掛けて、ノアは溜息を吐いた。
「言葉がきついのよ、あなたは」
「……悪かったよ」
「私じゃなくて、あの子に謝りなさい」
珍しくばつが悪そうに呟くレオンに、ノアは素っ気無く返した。
「その、容態は……どうなんだ」
「ただの風邪よ。今は落ち着いたみたいで、眠っているわ」
「そっか」
レオンは安堵したように呟くが、ノアの様子を見るように、視線を動かしている。彼女はわざとらしく、深く息を吐いた。
「大人気なかったとは思ってるのね」
「まあ……そりゃ」
歯切れが悪い。そしてそのまま、レオンは黙り込んだ。
物思いに耽っているような、ぼんやりしているような横顔。どことなく気落ちしているようには見える。
(少しいじめすぎたかしら)
「何か、あったの?」
「え?」
聞こえていなかったのか、レオンは訊き返してくる。
「様子がおかしかったのは、あなたもよ。普段、あの子にあんなきつい事を言ったり、怒鳴ったりしないじゃない」
「……そう、だな」
視線を落として、レオンは呟く。
何を言おうか、迷っているような表情だ。ノアも黙ったままでいた。
外は随分、日が落ちてきたようだ。アリルが目を覚ましているかもしれない。今夜は、彼女の側にいてやろうか―――
「病気に」
呟かれた言葉に思考を遮られ、ノアはレオンを窺う。
彼はどこともない方向を、ぼんやりと見ていた。
そして釈明する様子でもなく、ただ淡々と、続ける。
「病気ってやつに、嫌な思い出があってな。そんで、つい」
ノアはふと、自分がレオンの過去をほとんど知らないことを思い出した。
開けっ広げに見えるレオンだが、ノアは彼が自分の話をしている様子を一度も見た事がない。冒険者の街エトリアは、ノア自身も含めて過去が不透明な者で溢れかえっているが、皆必ず何らかの目的を持って樹海に潜っている。レオンのように、その目的すら不明である者は珍しかった。
長い沈黙が二人の間に下りる。レオンは相変わらず何を考えているのか分からない顔で眠そうにしていた。
これ以上話す気はないようだと見て、ノアは音もなく立ち上がる。
「どこ行くんだ?」
「アリルのところよ。様子を見に」
「そうか」
気のない返事をしたレオンに、ノアは意図なく冷たい視線を向けた。
「あなたのことはどうだっていいけど、何度も言っているように、あの子を傷つけるような真似だけはしないで頂戴」
「……分かってるよ」
「なら、いいの」
すると去り際、レオンが呼び止めてきた。
「何?」
振り返るが、彼はこちらを向いてすらいない。
「ごめん、って言っといて」
「自分で言いなさい」
素っ気無く返すと、ノアは酒場を後にした。
「成長してないな、俺も……」
「あら、何が?」
ぽつりと零した独り言を、サクヤが拾う。
レオンは苦笑して、何でもない、と手を振った。サクヤは腑に落ちないような表情ながら、客の注文を聞きに離れていく。
溜息混じりに、レオンはその背を見送った。
左手は自然と、開くことのない左目に触れている。
翌日、アリルの風邪は全快していた。
キタザキも太鼓判を押すくらいの元気っぷりで、朝早く施薬院を出た彼女は長鳴鶏の宿へ駆ける。
「アリル!」
玄関先で剣を振っていた(彼の日課である)クルスが、驚いた様子で声を上げた。
「もう風邪はいいんですか?」
「うん。迷惑かけちゃって、ごめんね」
そう言うと、クルスは微笑んだ。
「貴女が元気になったのなら、良かった。けれどもう無理はいけませんよ?」
「レオンに怒られちゃうもんね」
冗談めかして応じると、二人は顔を見合わせて笑った。
「レオンがどこにいるか、知ってる?」
「うーん、昨日は宿に帰らなかったようですし……今日はまだ見ていません」
「そっか、ありがとう」
礼を言って手を振りながら、アリルは宿を後にした。
その頃、レオンは施薬院を訪れていた。
「おや、レオン。珍しいね」
偶々通りすがったキタザキに声をかけられ、肩を竦めて見せる。
「ちょっとヤボ用でな」
「……アリルなら、ついさっき出て行ったよ」
「え」
キタザキが失笑する。彼の言葉にあっさり反応してしまったレオンは、頬を掻きながら正直に尋ねた。
「風邪はもう治ったのか?」
「全快だよ。若い者は治りが早くていいな」
軽く咳き込みながら、キタザキは言う。レオンは少し顔を顰めると、言ってやった。
「うつすなよ」
「馬鹿にはうつらん風邪だ。安心しろ」
年季の入った軽口に、レオンは口角だけで虚ろに笑った。
「ここにもいない、か……」
「どうしたの? 探し物?」
山積みになった商品の間から、シリカの首がにゅっと伸びてくる。
早朝とはいえ、シリカ商店の工場からの喧騒は絶えることがない。アリルは手首だけを何でもない、という風に振ると、入り口を覗いた首を引っ込めた。
「金鹿の酒場は準備中だったし、あと見ていないのは執政院だけ……いなさそうだけど、うーん」
アリルは腕を組みながら、ベルダの広場を歩いていた。まだ時間も早いだけあって、人通りは疎らだ。
「まさか、樹海に行って……うう、ありうる、かも」
放浪癖のあるレオンは、ギルドの“定休日”にもよく一人で樹海に入り浸っているらしい。アリルがその事実を知ってからは控えるように再三言っているのだが、彼にそれを聞く耳があるのかどうかすらイマイチ不明である。
「どうしよう……もう一度宿に戻ってみようかな、うむむ」
「わっ」
「ぎゃああ!!?」
突如肩を押され、アリルは絶叫する。倒れはしなかったものの、バランスを崩しながら振り向くと、目を丸くしたレオンがそこには立っていた。
「お、おどかさないでよ、もー……」
「すまん。そんなにびっくりされるとは思わなくて」
レオンは目をぱちくりやると、ふっと意地の悪い笑みを浮かべた。
「しかしお前、ぎゃあって……せめて『きゃあ』とかにしとけよ」
「わ、悪かったわね」
アリルは頬を膨らませると、ぷいと横を向いた。
「どーせ私は可愛くないですよーだ」
「おいおい」
レオンが苦笑する。その様子をこっそり横目で見ながら、アリルは胸を撫で下ろしていた。
(良かった。いつものレオンだ)
そう思うと、自然と言葉が出た。
「ごめんね」
レオンが少し眉を上げた、気がした。
「―――調子悪いの、黙ってついていっちゃって、ごめんなさい」
「あー」
レオンは何故かそっぽを向くと、応えた。
「別に。いい―――いや、良くはないが……何と言うか、その……」
「自分の体調も管理できないなんて、メディック失格だよね」
しゅんとして呟くと、レオンは高速で首を振った。
「いや、それは違う。違うと思うぞ。うん」
「そう……?」
「ああ。というか、俺の方こそ……昨日は言い過ぎた。ごめん」
見上げると、レオンと目が合う。
視線を絡めたまま、どちらともなく二人は微笑んだ。
「体はもういいのか?」
「うん。ご心配をおかけしました」
「結構」
レオンは上機嫌に頷くと、アリルの頭にぽんと手を置いた。
「腹減ったな……糸目ンところに、朝飯食いに行くか」
「行く行くー」
アリルが挙手すると、レオンは首を傾げた。
「何だお前、飯も食ってないのか」
「レオンを捜してたんだもん。宿に行っても酒場に行ってもいないし。どこ行ってたの?」
「秘密」
「何それっ」
本当はアリルに会いに行っていたのだが、そんな事を口に出せるはずもない。
すると彼女は何を勘違いしたのか、あ、と声を上げた。
「まさか、樹海に行ってたんじゃないでしょうね?」
「さあな」
「ちょっとー! 一人じゃ行かないって約束したじゃない!!」
「一人とは言ってないぜ」
「んなっ……じゃあ誰とよう!」
「それも秘密」
「何でー!!」
他愛もない事をうだうだと言い合いながら、二人は並んで歩き出したのだった。