4.
「ってなわけで、あたしと姉さんは今ここにいるの。分かった?」
とは言いつつ、無反応なのは分かっていた。
話し終わったメルは、円を描くように座している面々を見渡しながら、肩を落とす。
エレクトラはいいとして―――その隣で黙々と刀を磨いているブシドーの男。コタロウと名乗った彼は、各地をさまよう風来坊らしい。ある日夢枕に立った、亡き妹弟子がここに来るよう告げたとかいうので、世界樹の迷宮を訪れたそうだ。
「コタロウ、だっけ? あなたそんな適当でいいの?」
「……話を聞く限り、君たちも似たようなものだが」
熱に浮かされたような口調でぼそぼそと話すのは、病院着にぼろぼろのアタノールを右手にだけ付けた、金髪の青年、バルドルである。
格好はもう何から何までおかしいが、一番おかしいのは頭の中身だ。目的については、とにかく“世界樹に潜らなければいけない”としか言わない。真っ赤な顔で息も荒く、どう見ても具合が悪そうだが、彼にしてみれば高熱で死ぬことより、樹海に行くことの方が重要らしい。
「あんただけには言われたかないわね、バルドル。ていうかあんた、そんな調子で戦えるの?」
「大丈夫だ」
「足手まといは街に帰れ」
容赦のないコタロウの一言に、うんうんと頷いていたメルだったが、続いた言葉にずっこけた。
「童もだ」
「はいー? あたしのどこが足手まといって―――」
そのとき下生えをかき分ける音が背後で響き、メルは飛び上がった。
「ひゃっ!?」
エレクトラが音もなくレイピアを抜く。切り上げた剣先をするりと避けて、紫色の毒蝶々がリンプンを振りまかんと上空に飛び立つ。
それを、アタノールの機動音が遮った。
「頭を下げろ」
唱えるように口早に言うと、バルドルは籠手から術式を放った。炎の術式は逃げる空間を与えることなく蝶々を巻き込み、爆発する。
塵となった魔物の残骸がぱらぱらと降り注いだ。
目をぱちくりとするメルをよそに、バルドルはふらふらと座り込みながら、力なく言った。
「足手まといには……ならない」
ため息をついたのはコタロウだ。
彼はいつの間にか抜いていた刀を納めると、再びメルを向いた。
「……童」
「だーかーら」
地団太を踏みつつ、メルはエレクトラを指した。
「姉さんはあたしが一緒にいないとダメなんだって! うまく回復できなかったりするの!」
「それを抜きにしても、お主は戦いに邪魔だ」
「なっ」
さっと顔を朱に染め、メルは叫んだ。
「あたしだって戦えるもん!!」
「逃げ惑うばかりが戦いではない。己が身は己で守れ」
そこに、エレクトラが口を挟んだ。
「……妹の身体は、私の身体でもある」
「姉さん」
「あなたたちに守れとは言わない……」
凛然と、エレクトラはコタロウを見返している。
一方のブシドーは―――何も言わずに背を向けた。
そのまま歩きだしたので、エレクトラの言葉によって一応の納得はしたらしい。それに続こうとしたバルドルも同様だろう。
が。
「そっちはさっき来た道だけど」
メルの一言に、コタロウは何事もなかったかのように方向転換する。
その様子を見ながらメルは呟いた。
「ねえ、実はあなたって方向音痴なんじゃない?」
「童」
「ん?」
「やはり街へ帰れ」
「何で!?」
キーキー叫びながらコタロウに向かっていこうとするメル。
エレクトラが弾かれたように顔を上げる。
「メル!」
一瞬遅れて、めきめきと音を立ててメルの眼前に迫る倒木。
エレクトラに引き倒されながら、メルは叫んだ。
「今度は何!?」
森を破壊しながら現れたのは、白い毛並みの―――巨大な虎だった。その足下から這い出るように、下生えの隙間から、一回り小さな白い狼が数頭姿を見せている。
青い目を瞠っているバルドルが呆然と呟いた。
「スノードリフト! 何故ここに……」
「あのホワイトタイガーの名前?」
エレクトラに隠れながらメルが問えば、尻餅をついたままバルドルは頷いた。
轟く獣の断末魔。
スノードリフトの足元で、狼の太い首を掴んだコタロウが立っていた。いつの間に一太刀を加えたのやら、狼の白い毛並みは鮮血に染まっている。
コタロウ自身も獣の返り血を頭から被っているが、彼はいかにも興味がなさそうに、
「毛皮にする価値もない」
と呟く。
そのとき、スノードリフトが吼えた。怒りの咆哮に焚きつけられたように、狼たちが一斉にこちらに向かってくる。
「ね、姉さん!」
「私から離れないで」
エレクトラに寄り添っていれば、ふらふらと近寄ってくる―――四つん這いで―――バルドルを、メルは足蹴にする。
「ちょっと、あっち行きなさいよ」
「術式、起動には、時間がかかる……その、間、少し」
あまりにつらそうなので、メルはやれやれと肩を落とした。
「しかたないわねー」
そう言った瞬間、エレクトラのレイピアが閃いた。
少し離れた林の中では木々の頭を越えるほどの血飛沫と、ひっきりなしの断末魔が轟いている。相当数の狼があちら―――コタロウに向かったはずだが、彼はひとりでそれらを屠っているのだろう。恐ろしい手並みだ。
エレクトラが離れる。その隙にメルへ近づいてきた小型の狼に、メルは飛び上がった。
「ちょ、ちょっと!」
姉はまだ気づいていない。だが子供のようにも見える小さなこいつだけなら何とかなるかもと思い、メルは木製のちゃちな弓矢を取り出したが―――子狼の背後に現れた、一回り大きな狼に飛び上がった。
「きゃあ!」
思わず伏せた瞬間、頭上を雷撃が迸る。
頬に当たる乾いた空気。抱えていた頭からそろそろと手を離して振り返れば、木にもたれ掛かって、アタノールを掲げるバルドルがそこにいた。
その腕が力を失ったようにかくりと落ちたので、メルはあわてて近づいた。
「大丈夫?」
「限界だ」
「貧弱ねえ」
言いつつ、もはや指先ひとつ動かせない様子の彼をつついていれば、再び聞こえてくる獣のうなり声。
「うえっ……」
首だけ振り返ると、さらに一回り大きな狼が、ほんの数歩分先でこちらを睨みつけていた。
「きっ、きゃあああー! ちょっと、気絶してないで何とかしてっ」
がくがくとバルドルの襟を掴み上げ揺するも、首の骨すらなくなったかのように力が抜けきっていてまるで手ごたえがない。
エレクトラの姿を探すも、とっさには見つからなかった。
「だ、誰か何とか……いやっ!」
メルが首を竦めた瞬間、獣の唸りはか弱い吐息に変わる。
重いものが地面に落ちる音がして、メルは閉じていた目を開くと―――まばたきした。
「よう」
口から血を吐く大きな狼を足蹴に横たえ、大剣を肩に担いだ赤い剣士が、メルに向かって右手を挙げていた。
その軽い調子に反して、彼―――レオンの不機嫌な様子から、メルは肩を竦めて愛想笑いを浮かべる。
「はぁい」
「俺、エトリアの街にいろって言ったよな。なあ?」
「世界樹もエトリアでしょ」
「迷宮はエトリアの“街”じゃねえんだ、クソガキ」
すれ違い様避ける間もなくメルの頭を痛いほどの力で掴むと、しかし、すぐレオンは通り過ぎていった。グローブの指先だけがバルドルを指す。
「そこのへばってんのが病院嫌い君で、おまえのねーちゃんはアレか」
レオンが指したとき、ちょうど残り一匹の狼から、エレクトラが深々と突き刺したレイピアを引き抜いたところだった。右腿に走る裂傷や、だらりと下げた左肩から血が滴り落ちている。さすがに無傷とはいかなかったらしい、息も上がっているようだ。
メルはその側に駆け寄っていく。
「姉さん、レオンが来ちゃったわ」
「……誰?」
小首を傾げたエレクトラの反応に、がっくりと肩を落とすレオン。
「……ま、話はあとだ。樹海守の兵士に危害を加えて、樹海に入った奴がいる。とりあえずおまえらは脱出―――」
「あ、その人ならさっきそこに」
「は?」
レオンが怪訝な顔をするや否や、姉妹と彼のあいだの空間に、天から男が回転しながら降ってくる。
しなやかに着地をした彼―――コタロウは、こちらには一瞥もくれず、射殺すような視線を眼前に据えたままだ。レオンはそれを見て渋い顔をしている。
「おい。何か見たことあるぞ、おまえの顔」
「あれ、見て!」
メルはコタロウの視線の先を指さして叫んだ。
手下を殺し尽くされたためか怒髪天を突かんばかりに天高く吼え、びりびりと空気を震わせている巨大な白虎の姿に、レオンは驚愕の表情を浮かべていた。
「スノードリフト!? 地下五階の主だぞ!?」
メルたちは樹海に入って間もないので、ここは地上階、せいぜい地下一階といったところだろう。
「そんな大物がなんでこんな浅いところに?」
「俺が知るか! っつうか、このままじゃ街に―――」
また鼓膜を揺るがす轟音が森全体を揺らす。
虎の巨躯が、それを思わせない俊敏さで動いた。生える木の幹ほどはあろうかという前肢が、一同の立つ地面を抉る。前進してくるスノードリフトから退避するように跳び退さるコタロウとエレクトラをよそに、レオンはメルを抱えたまま、木に這いつくばっているバルドルのそばへ移動する。
メルは腰を抱えあげられた状態でレオンを見上げた。
「街に、何?」
「街に上がってくるかもしれない。その前にここで叩く」
「ねえ。それをあたしたちが手伝ったら、見逃してくれたりしない?」
「どうかな」
レオンはさらにバルドルを肩に担ぐと、後ろを気にしながら小走りに、スノードリフトから遠ざかる。
「―――無事に全員が脱出できたら、考えておいてやる」
「姉さんは強いわよ? あのコタロウっておじさんも」
「単なるスノードリフトなら俺一人でも十分だ。だが……」
レオンは振り返りながら続けた。
「様子がおかしい」
メルは正面を向いて抱えあげられているので背後が見えないが、また森の木のどこかがへし折られているのは音で分かった。
スノードリフトの頭が、倒れてくる木の向こう側に覗いた。振り払った頭から、エレクトラが降ってくる。彼女は木の枝から器用に半回転すると、スノードリフトの牙を避けながらその首を捉えた。刺し貫くレイピア―――だがそこで怪訝な顔をし、エレクトラは再び飛び降りる。
「剣が刺さらない」
レオンたちの側に降り立ったエレクトラは、先端が曲がってしまったレイピアを見せて呟いた。レオンは渋い表情だ。
「毛が固いんだろう。特に、体毛が密集しているところは肉まで刺さらない」
「スノードリフトの弱点は?」
「炎だ」
その瞬間、スノードリフトは前肢を上げて仰け反った。
足先が赤く燃えている。しかし地団太を踏むようにそれを鎮火した獣は、苛立ち任せに周囲の木を蹴散らしていた―――逃げるように、こちらに駆けてくるコタロウ。彼が放った火なのだろうか。
「何あれ。再生してるわ」
メルが指摘する。
焼け爛れたはずの両肢の皮膚が、みるみる桃色を取り戻していく。かと思うと、土煙が払われたところからは白い毛並みが生え揃い始めていた。
「―――あんなのどうやって倒すの?」
広範囲を焼き尽くすのには錬金術だが、この面子でおそらく唯一術式を使えるバルドルは、すっかりノビてしまっている。
レオンはメルと彼を地面に降ろすと、大剣を構えた。
「できるかどうかじゃなくて、やるんだよ」
「だから、どうやって?」
「オイ」
レオンはコタロウに呼びかけた。
「―――そこの犯罪者。手伝え」
無反応のコタロウに、人差し指をつきつける。
「思い出したぞ。おまえ、ラガードでコユキに負かされてた奴だろ」
「……何故その名を?」
ここで初めてレオンを見たコタロウは、切れ長の目をわずかに見開いた。
「貴様は……」
「名前までは覚えてねえけどな。何の因果か知らんが、この期に及んで手伝わないとは言わせねーぞ」
「なに、知り合いなのあなたたち」
レオンの首から垂れる飾り布をメルが引っ張ると、彼は渋面で口を開いた。答えなければまた面倒くさいことになるとでも思っていそうな顔なのが、やや不本意だが。
「こいつの妹弟子が、俺のかつての仲間でな。ちょっとした因縁があったんだよ」
「妹弟子って、この迷宮で亡くなったかた?」
「なんでそんなこと知って……」
レオンは絶句したが、刹那、口早に答えた。
「そっちじゃない方だ」
「力を貸す義理はない」
唐突に発言したコタロウに、レオンは視線をそちらに預ける。
「世界樹から出た瞬間、ブタ箱にぶちこまれるのとどっちがいい?」
コタロウは例の剣呑な視線でレオンを射抜いた。
「やれるものならばやってみろ」
が、レオンは平然としたものだ。肩を竦める。
「勘違いすんなよ。助けてやろうっつってんだ。おまえの目的は知らないが、補給なくたった一人でこの先を進んでいけるほど世界樹の迷宮は甘くない。……おまえも分かりきっているだろうが」
コタロウは答えない。
代わりに、スノードリフトの咆哮が響き渡る。白虎はやはり森の出口を目指しているようで、レオンはそれを回り込むように走り出した。
「おじさん」
「おまえらはそこにいろ」
「コタロウ!」
コタロウはレオンと逆回りに、スノードリフトの足下に向かって駆け出した。鞘走りから抜き放たれた刀には紅炎が宿り、白虎の脛を打つ。
炎が消え切らぬうち、すかさず赤い髪が疾駆した。悲鳴と共にくずおれるスノードリフト、その後ろ肢が炭と化す。
「効いてるぞ!」
背、腹、と攻撃を加えようとする二人だが、必死に躰を振るい抵抗する白虎に、次第に近づけなくなっていく。
そのうちに、焼け落ちたはずの後ろ肢は、骨、腱、血管とみるみる回復していく。
「姉さん!」
エレクトラはメルの呼びかけに、小さく頷くと、戦場に駆け入っていった。
スノードリフトの肢が回復しきる前に、曲がったレイピアがその骨へ突き刺さる。
異物は再生を妨げる以上に、獣にすら脅威となる猛毒を帯びた剣だ。毒が効いてきたのか、白虎は抵抗する力を失っていった。獣の動きが収まるにつれ、コタロウたちの攻撃は致命傷となっていく。
やがてスノードリフトの全身は炎に巻き込まれ、森の一角を焼く大火と化した。
「ここの周辺はしばらく、草木も生えないかもな」
それを眺めながら苦い顔でため息をついたレオンは、刀を納めたコタロウに視線を移した。
「―――で、なんであんたはエトリアにいるんだ?」
「貴様に答える義理は―――」
「妹弟子の幽霊が夢に出たからだって」
メルの一言に、レオンは―――コタロウもだが―――苦虫を噛み潰したような顔になったが、何も言わなかった。
やがて火が収まってきた頃、レオンは再び口を開く。
「病院嫌い君の容態も芳しくねーし、街に戻るぞ」
「あたしたち、どうなるの?」
「……とりあえず上に掛け合ってやるよ。また勝手に入られちゃたまんねーしな」
「やったあ」
飛び跳ね、無表情のエレクトラとハイタッチするメル。レオンはコタロウを向いた。
「おまえは事情聴取な。そんで危害を加えた兵士に―――」
唐突に言葉が切れる。
だが、メルや他の者たちも同様に言葉を失っていた―――正確には、話すことができなかった。舌を噛むほどの激震が、足下、否、世界樹そのものを揺るがしていたからだ。
転倒するメル。エレクトラがそれを支えた。
「全員出口まで走れ!」
何とかそれだけ聞き取ることに成功したメルは、エレクトラに支えられながら、来た道を全力で走り出す。
周りを見る余裕はなかった。視界が激しく揺れる中、どこを蹴りどう走りたどり着いたのか―――気づけば、メルは地面の割れ目の前で、せき込んでいた。エレクトラがその背をゆっくりと撫ぜてくれている。
振り返る。バルドルを担いだレオン、顔色一つ変えぬコタロウが同じように、世界樹の入り口を見つめていた。ここもかすかに揺れてはいるが、内部ほどではない。やはり地震源は世界樹の中のようだ―――次第に揺れが収まるなか、レオンが目を見開く。
「磁軸が……!」
入り口のそばにあった、紅色の光の柱が、みるみるうちにその輝きを失い、とうとうかき消えた。レオンはその縁に手をかけ、光が放たれていた穴をのぞき込んだまま呆然としている。
「磁軸が消えただと……何が起こっているんだ」
「どうしたの?」
レオンはいつになく慌てた様子で街を仰いだ。振り切るように二、三まばたきをすると、額にかかる髪をかきあげる。
「とにかく……執政院に移動しよう。街も混乱しているだろうし」
「はぁい……コタロウ?」
厳しい表情で、世界樹の迷宮を見つめていたコタロウは、しかしメルの言葉に応じるように、レオンに続いて歩きだす。
ほっと安堵の息をつくと、メルもそれに従って足を進めようとして―――エレクトラが未だ立ち尽くしているのを見つけた。
「姉さん、行こうよ」
「世界樹が……」
「え?」
姉はぼそりと囁いた。
「世界樹が、呼んでいる」
抑揚のない言葉は、静けさを取り戻した迷宮の入り口の、木々を揺らす風となって消えていった。
5.
街に起こった地震はそう大きくはなかったらしく、被害の程度もさほどでもないという。
だが一方で、世界樹の被害は計り知れない。
世界樹の各階層を結ぶ、樹海磁軸。それが完全に消滅してしまったというのだ。
「深い階層にショートカット出来なくなっちゃっただけでしょ?」
他人事のようなツインテールの幼女を、レオンはじろりと睨みつけた。
「世界樹から得られる採集物はエトリアの重要な資源なんだ。異なる階層からは異なる採集物が採れる。それがほとんど採れなくなったってことさ。どういう状況か分かるか?」
唇を尖らせるメル。
「分かってるつもりよ。だから各階層を順番に下りていって、磁軸を復活させに行くんでしょ」
エレクトラが小さく頷いた。
三人は、世界樹の入り口の地面の裂け目へ繋がる道を武装して、連れだって歩いている。
「それと、地震の影響を考慮した迷宮内部の調査な」
「探索許可が下りて本当に良かったわ!」
小さな身体で伸びをしながら、メルは言う。
その視線の先に見えてきた樹海の入り口。
三人の到着を待っている、コタロウとバルドル―――今日はまともな錬金術師らしい服装をしている―――を見つけて、メルは手を振りながら駆けていった。
無邪気な様子を見送りながら、レオンは思い起こす。
「樹海の調査?」
紅茶を入れていた妻は案の定、怪訝な顔をしたが、ソファに身を落とすレオンは飄々と続けた。
「直々のご指名だ、適任だろ」
事態を収拾するための責任者として、オレルスに指名されたレオンは、調査隊を率いてエトリア樹海に再び潜ることになった―――因縁深い、あの迷宮に。
眉をひそめたまま固まっている妻は、そのときのことを―――レオンやかつての仲間たちと共に、迷宮に挑んだことを思い出しているのだろう。
得られたものは多かった。
だがそれと同じくらい、失ったものがあったのも事実だ。
「―――おいそれと投入できる人員がいない。調査隊には流れの冒険者たちを使う」
「それ、あの、コユキちゃんの?」
「まあ、あいつは街に置いておく方が危険だろうしな……」
遠い目をしつつ、レオンは指を折った。
「あと、例の不死の姉妹、樹海で拾った病院嫌い君。これで五人だ」
「バルドルさんは……」
戻ってきてすぐ寝込んだが、今は退院できるほどに回復したと聞いている―――身体は、だが。
「ほとんど自分のことについて話してくれないから。記憶喪失かもってことで、ウィンデールくんが強制的に入院継続させているけど」
「院長代理の権限で何とかなるだろ、リハビリとか言って」
苦い顔をしながらテーブルに紅茶一式を置いた彼女は、レオンの隣に座り込む。
無言の横顔は、思い詰めたような色を浮かべていた。
「……心配か?」
「その姉妹さんも、片方は小さな女の子なんでしょ」
「中身は十八らしいぞ。かわいくねーったら」
「もし、マオが同じ目に遭ったら……」
顔を上げて、彼女は強い口調で言った。
「マオには樹海のこと、言わないで」
「……気づくんじゃないか? 結構長いこと、エトリアに留まることになるしな」
寝静まる息子の部屋を振り返りながら、レオンは呟いた。仕事柄周辺諸国を飛び回る彼は、数ヶ月に一度、数日程度しかエトリアにいないことが多い。
そっと部屋の戸を開き、熟睡しているマオの寝顔を遠巻きに眺めると、アリルは小さくため息をついた。
「……冒険者になりたいって言ってたのよ」
「ははは、あいつもよく夢がころころ変わる奴だな」
「笑い事じゃないわ……」
戸をゆっくりと閉めると、アリルは隣に立つレオンによりかかってくる。
触れることを躊躇うような近づき方だ。レオンはその柔らかい身体に腕を回すと、そっと力を込める。
「大丈夫だ」
身を委ねるようにアリルは目を閉じたまま、何も答えることはなかった。
不安がないわけではない。
不死の女に、それを維持する妹。人を人とも思わぬ戦闘狂いに、樹海から現れた死人にそっくりの男。
加えて挑むは、かつて乗り越えたはずの世界樹の迷宮。何度も死ぬような目に遭った、そしてこれからの冒険で、今度も無事に乗り越えられる保証はどこにもない。
だがそれでも。
今の俺には守るものがある。
何があろうと、ただ戦うだけだ。
その信念を杖に、レオンは前進し続ける。
バルドルは沈黙を守っている。
施薬院を出る際、最後まで彼が樹海に行くことを反対していたメディックが見送りに来た。
ただ一言、“死ぬな”とだけ告げるために。
それに篭められたメディックの想いがいかほどか、バルドルには知る由もない。
だが―――自分を待つ人がいる。
それがバルドルに、懐かしい感覚を呼びさます。
コタロウの夢は、いつからか一貫している。
おかっぱの幼い少女が、桜吹雪の下手鞠をついている。近づけば彼女はどんどん大人びていき、彼の知らない成長した姿となって、彼に微笑みかける。
それで終わりだ。
だが、コタロウは知っている。
彼女の命がこの地の世界樹の迷宮で果てたということを。生き残った、もう一人の妹弟子の言葉から。
だからコタロウは行かねばならない。
あの微笑みの先には何があるのか、確かめに行かねばならない。
メルは常々思っていた。
自分たちの身体の謎が解けたとき、姉と自分は一体どうなってしまうんだろうと。
姉は何も言わない。彼女も知らないんだろうと思う。
だが、姉は知らない。エレクトラがメルを想うより、強くメルはエレクトラを想っていることを。ただ二人きりの姉妹として、肉親として、メルは世界の何よりエレクトラを失うことが、恐ろしいということを。
もしかしたらこの執念が、姉をこの世につなぎ止め続けているのかもしれない。
だとしてもメルは、世界樹の先に待つ試練に、自分が耐えられるか分からない。
五人は自然と合流を果たすと、改めて世界樹の迷宮を向いた。
「中の様子が以前と同じとは限らねえ。慎重に行くぞ」
「地図を書くの?」
ぽいとレオンからそれを投げられ、メルは上擦った声を上げる。
「ちょ、ちょっとあたしが!?」
「そのくらい役に立て」
「むー……」
への字口を作りつつ、メルは地図を矢筒に仕舞う。
不意に、エレクトラの耳に、せき立てるような声が響いた。
―――まただ。
「姉さん?」
男たちの後方から、足を止めたエレクトラに気づいてメルが振り返る。
エレクトラは何でもないと言うようにかぶりを振った。妹はそのままレオンたちの方へ歩いていく。
―――多くのことを望みはしない。この声に引き寄せられるがまま遂にたどり着いた、この底に何があったとしても。
妹だけは、守り抜いてみせる。
誰にも口にすることない、決意を胸に抱いたまま、エレクトラはその一歩を踏み出した。
【おわり】