*レオンの話。彼は主人公なのでほぼ本編で書きたいことは書き切ったのですが、彼の過去について読みたいと言ってくださった方がいらしたため、少しだけ補足の短編です。
***
何処かしらから立ち上っている煙が消えることはない。
それはこのキャンプがあるのが戦場の只中で、あの煙は日々減りも増えもしない死体を焼き続けているものだからだ。
少年は身支度をして天幕を出ると、まだ昏い未明の空気に身震いをした。吐き出した息が白く染まっている。夏だからといって、寒暖差の厳しい荒れた土地柄には関係ない。
狭い丘に並べられた天幕の群れを避けながら、少年はその頂を目指す。砂が裸足に食い込み、乾燥した肌を痛めつける。だが既に岩肌のように固くなっている足の裏から血が出ることはなく、ただ、不快なだけだ。
「おう、レオン」
火の番の男が、少年―――レオンを見つけて軽く手を挙げる。
「―――なんだ、早いな」
レオンは会釈もせず、焚火を挟んで男の正面に座る。この男は好きではなかった。
彼の姉代わり―――いや、師に幾度となく言い寄っているのを見たことがあるから。もちろん、彼女はいいようにあしらっていたけど。
「何か、話せよ」
レオンは黙して、火を見つめている。
男の舌打ちが聞こえる。ほぼ同時にレオンは顔も上げずに首を横に傾けた。避けた空間を、男が投げた薪が通り過ぎていく。
男がまた、舌打ちをした。
「おまえの変な感覚、便利だよな。片目見えてねえくせによ」
男の苛苛とした気分が伝わってくる。
レオンはちらと丘の天幕を見た。
そろそろ、ルミネも起きてくるころだろう。
「ホントにつまんねーガキだな」
減らず口に背を向けて、レオンは彼女を迎えに降りていった。
―――死者を天に送る煙は、視界の隅でまだ消えてはいない。
ぱきりと、水を失った木の枝が鳴る音。
レオンはそれで、自分が今眠っていたことに気づいた。
―――随分古い記憶を、夢に見た気がする。
身じろぎしようとして、胡坐の上に何かが乗っていることに気づいた―――否、彼が抱きかかえていると言った方が正確だろうか。
レオンの右肩に頭を預けるような姿勢で、アリルが寝息を立てている。
かなり密着した体勢に、レオンの眉が曇る。なんだ、なんでこんなとこで寝てんだ、コイツ……。
彼らの他に、林の中に人はいない。ハイ・ラガードからエトリアに帰る二人旅の途中だから当然だ。目の前には火の消えた焚火跡がある。休む際消したものだ。
しんと冷えた空気が、レオンの鼻先を風として通り過ぎる。
おぼろげながら、段々と眠る前の記憶が戻ってきた。
そうだ、火を消すと寒くて眠れなかったから、寄り添って寝ることにしたんだった。
―――改めて考えると、いくら眠かったとはいえ、二人ともあまりに何も考えてなさすぎである。
何の欲より睡眠欲が強すぎて、いまだにこの姿勢でもレオンに妙な劣情が湧いてくることはないが、朝目覚めたときには保障できない。とりあえず、アリルが先に目覚めて、とっとと離れてくれるのを祈るばかりである。
自分から離れるのは―――まあ、今はまだ夜明け前で寒いし。
何より女の柔らかさと温かさが、久しぶりすぎて心地よくて。
よく分からない自分への言い訳を考えていると、また瞼がどんどん重くなっていく。それに逆らうことなく、レオンは再び眠りに落ちていった。
訪れた砂と土の街で、出会ったのは菫色の瞳の少女だった。
靴磨きをする少女だった。隊が駐屯するための手続きを取る短い時間だったが、自由をもらったレオンは彼女と、その仲間の孤児たちとうちとけ、仲良くなった。
「やっぱりまだ子供ねー」
宛がわれた今晩の宿に向かう道中、菫の少女に貰った押し花を見つめていたレオンにルミネがそうからかうように言った。
むっとして顔を上げ、レオンは言い返す。
「おれは子供じゃない」
「子供じゃないんだったら、お仕事できるわねー?」
にやりと浮かんだ笑みに、レオンはしまったと思いながらも、その表情を隠すように小さく舌打ちした。
“仕事”自体は、最近よくやる手口だ。
ここは紛争地域だ。そのためまず、襲撃を警戒している富裕層の屋敷に、臨時に雇われる。今レオンが行動している隊は少人数からなるいわば陽動隊で、遅れてくる本隊が街、ひいては雇われた屋敷に入り込むための糸口となる。
陽動隊は傭兵の形式を取っていないこともある。今回もそのケースだった。
戦時でも女を買う需要は多い。今日の屋敷に行くのはルミネと、その小間使いとしてのレオン、二人きりだ。
「じゃ、ここで待っててね」
ばたんと大きな部屋の扉が音を立てて閉まる。しめ出されたレオンは、扉の正面で蹲った。下卑た話題を雇われ兵士が振ってくる。そのうち部屋から嬌声が聞こえてきて、男どもはにやついた笑みのまま、黙りこんだ。
部屋は一つではない。いくつもあるうちの一つに耳を当てていた兵士が、おい、とひそやかに皆を呼んだ。
「ここ、穴から見えるぜ」
お楽しみの最中を覗こうというのである。気の乗らないレオンすら、静かに興奮する男どもに穴を覗くように強要される。
大きなベッドで、腹の出っ張った汚い裸のオヤジが一心不乱に腰を振っている。
女の子ならとにかく、おっさんを見る趣味はない。目を背けようとして、レオンは彼に組み敷かれている少女に、乾いた声を漏らした。
彼女の瞳は、菫色だった。
夜が長いと感じたことは久しくなかった。
嫌な夢を見て目が覚めることがなかったからだとも言い換えられる。未明に目が覚めたレオンは、そのまま寝つけずに、かといって動くことも出来ず、じっと目を閉じていた。時折あぐらの中の少女がむにゃむにゃ呟くので、早く起きないかなあとか考えることもあるが、なかなか眠りが深いようだ。なんというか、この娘は男に警戒心がなさすぎるだろ……。
自分の心に線引きをして、その内側に彼女が入り込むのを、レオンは許した。
何故そんなことをしたか?
―――多分、人並みになりたかったからだ。人並みに誰かを愛して、そして愛されることを受け入れたかった。陳腐な望みだが単純明快に“生きる”という人生の目標以上に、それは尊く得難い。
“人並み”、それがこの少女によって可能となるのか、それはまだ分からない。
これも今なら素直に認めることが出来る。
今すぐに結論を出すには、彼の人生には欠落したものが多すぎる。
「現実を見なさいなー」
娼婦の女に言われてしまえば、レオンの落胆なんて塵屑のようなものだ。
少女を買った富裕層は、レオンの所属する傭兵隊によって蹂躙された。丁度襲撃の夜は、同じように享楽の宴が開かれていて―――その女たちが荒くれた傭兵たちの手に落ちてどういう目に遭ったか、考えたくもない。
「中途半端に感情移入しないで。でも、あいつらと同じになる必要もないわー」
「どうすりゃいいんだよ?」
「自分で考えなさい」
しょっちゅう言われる言葉だ。“自分で考えろ”。だが、一方的に問いだけ示されて答えがないのには、困る。
「あの子、どうなるのかな」
ぽつりと呟けば、ルミネはにっこり微笑んで、自分を指さした。
「こうなるのよ」
それは最悪のパターンだろ。
言葉にはしなかったはずだが、脳天に落ちた拳のおかげで目から火が出た。
傭兵隊は居心地がいいところじゃなかった。
目を閉じていることすら諦め、レオンは木々の隙間から藍色の空を見ていた。夜明けが近い。それでも、少女はまだ起きる気配がない。
ずっと動けないので身体は痛むし、眠気はあるのに眠れないし。
なのにもう少しこのままでいたいと思う自分もいる。
なんとなく、クッククローにいた頃に感覚は近い。
その日もとても寝られたものではなかった。
何故だかは覚えていない。とにかくとんでもなく寝づらくて、ルミネのところに行った。幸い彼女も誰の相手もしていなくて、かといって自分の相手をしてもらうには寝床があまりに全員で固まっていたため、街外れの丘、木々の生い茂る森の中へ行くことにした。誰かに見つかれば、タコ殴りに遭う。それくらい、ルミネは隊ではもてはやされ、レオンの地位は低かった。
とはいえ、もうただ殴られっぱなしの子供ではなくなっていたのだが。
侮れば手痛い反撃に遭う。レオンに対する目は明らかに犬の子から、狼の若者に変わっていっていた。だがレオンとしてもそれは微妙な立場の転換点で、もし調子に乗った態度に出れば粛清されるのは目に見えていたからだ。謙虚にしつつも、自分の立場を高めていかねばならない。
ルミネに相談に乗ってほしかった。
久々に彼女を抱いたのは、そんな夜だった。
「……おい」
眠っていても研ぎ澄まされているレオンの感覚が、それに気づいた。
草むらに外套を広げて眠っているルミネを揺り起こす。どんどん近くなるそれは人間の気配、それもひとりではない。
傭兵隊の人間かと思った。それはそれで、ルミネと一緒にいるところを見つかれば厄介なことになる。考えた挙句に、レオンはルミネを連れて近くの木に登った。今思うとそれがなければ、二人とも死んでいただろう。
木の下に現れたのは、敵軍の兵士だった。
そして間もなく、ふもとの街―――傭兵隊を標的にした、焼き討ちが始まった。
幾度となく木を降りようとしたルミネを抑え、兵士たちが木の下、丘から完全に去ったのを気配で悟ると、彼女を残して木から降りた。木の上からも見えた、煌々と燃える炎。光の全てに、焦げ臭いその内側に、のみ込まれていく命と悲鳴。
誰も助かるまい。
丘の上からははっきり見えた。火にまかれて家から飛び出してくる影、空気を失い倒れ伏す人、折り重なっていくそれら、それらを呑み込む炎。
―――ざまあみろ。
いつしか、レオンの口角は上がっていた。
空気と同じ、乾いた笑いが口の端から漏れる。抑えきれぬそれはひきつった波となって、唇を割った。哄笑。
ざまあみろ。
姉を呑み込んだものと同じ赤い炎が、今度はそれを放った連中を呑み込んでいく。
燃えろ。
燃えて、全部灰になってしまえ。
ここからすべてがなくなってしまえばいい。
もう誰も、思い出すものがいなくなるくらいに―――
家族を救えなかったこと。
恨みの気持ちを拭うことが出来ず、仲間として受け入れられなかった傭兵隊を、二度と修復できない形で失ったこと。
二度とも死ななかった、自分。
―――生きるなら。生きなければならないのなら、その意味は一体何なのか?
世界樹の迷宮で出会った人々を、仲間として守りたいと思うようになった。
だが彼らはそれぞれの道を選んで、やがて袂を分かつ時が来る。それを否定する気持ちはなく、むしろ祝福したかった。
でも、そのあと俺はどうなるんだろう?
また、あてない旅に出るんだろうか。
光。
「あ、起きた?」
少女の声に瞼を開ければ、彼女の温かみは膝の上にはなかった。
しかしすぐ側、レオンが寄り掛かる木に同じく身を任せるような形で、アリルがちょこんと座っている。
「あの、朝ご飯の準備とかしたかったんだけど、その」
朝日のせいか顔を赤らめながら、アリルは俯き気味にレオンの片手を指した。
左手はがっちりと、アリルの手首を掴んでいた。
「は、離してくれるとうれしいなー、なんて」
「悪ィ」
ぱっと手離せば、曖昧な笑みで少女は訊いてくる。
「よく眠れた?」
「……おかげさまで。おまえもよく寝てたな」
「あ、あんまり」
ぱっと背を向けて、昨日のうちに溜めていた水を一口含むと、アリルはせせこましく朝食の準備を始める。
まだぼんやりと座ったまま、レオンは思考に耽っていた。
エトリアに繋がる街道にはまだしばらくかかるな、とか。この辺りは最近まで戦争してたから、道をショートカットするにもなるべく大通りを行った方が野盗に遭いにくい、とか。
後金の話を、いつ切りだそうか、とか。
前々から思っていたが最近確信がいった。
アリルは鈍い。こと、自分に向けられる感情に関しては。
「ねー、火を熾すの手伝って」
「火種あるだろ?」
「あるけど、点かないの!」
薪が湿ってしまっている。乾いた枝を探してきて積み上げながら、レオンは声をかけた。
「なあ」
「何?」
「お前は、俺の何が良かったんだ?」
仰け反るアリル。
「な、なんなの、突然……」
「いや、何となく」
視線を彷徨わせ、アリルは眉を下げた。
「答えなきゃダメ?」
「嫌ならいい」
「い、言いたくない」
「じゃあいいや」
とりあえず、“何か良かったところがあったらしい”というのが分かっただけでもいい。
ところが、アリルは続けてきた。
「助けてくれたり、とか」
「仲間だしな」
「あ、アリのときとか。すごいな、って思ったし……」
「言ったろ。キタザキ先生に殺されると思ったんだよ」
「あとは……か、か、かっこよかった」
「はい?」
アリルは何故かキッと睨んでくる。
「なんでこんなこと言わなきゃいけないのよ」
「嫌なら言わなくていいっつったじゃん。答えたのお前」
「もー!」
顔を覆うアリル。
レオンは何とか火を点けることに成功する。
「……レオンこそ、どうして私についてきてくれたの」
「そう来るか」
「うん。だって……私のこと、別に、好き、でもないのに……」
自分で言いながら落ち込んでいく彼女を眺めつつ(表情がころころ変わるのが面白い)、レオンは淡白に答えた。
「大丈夫だなと思ったから」
「え?」
「俺は悪運が強い方でな。あんまりまっとうな生き方をしてきたつもりもない。これからも多分そうだ。一緒にいる人を巻きこむこともあるだろう」
「だ、大丈夫って」
「“私はそんなに簡単に死なない”っつってたろ。なんか納得したんだよな。それで、おまえは大丈夫だと思った」
「……よく分かんないよ」
「俺もうまく説明できそうにない。ただ、誰でも良かったわけじゃない、というかおまえがおまえでいてくれて、丁度良かったんだ」
言いながら、さすがに恥ずかしくなってきた。
「あと、別に好きでもないってのは、違うぞ」
火を挟んで、アリルは俯いたまま黙り込んでいたが、ぱっと顔を上げるとことのほか真剣な顔でこう言ってきた。
「ねえ」
「ん?」
「あのね、良かったら、だけどね……今すごく、抱きつきたいんだけどいいかな」
「何じゃそりゃ」
「ふふ」
腕を伸ばして引き寄せれば、少し恥ずかしそうにしながらも、アリルの頬が胸に降りてくる。
じんわりと心臓付近に、夜に感じた柔らかい温かさが戻ってくる。
生きていてよかった。
目指すところへは少しずつでいい、これで良かったと思えるように、これからも生きていこう。
旋毛に唇を落とせば、二人同時に腹が鳴って、なんだか笑けて仕方がなかった。
***
何処かしらから立ち上っている煙が消えることはない。
それはこのキャンプがあるのが戦場の只中で、あの煙は日々減りも増えもしない死体を焼き続けているものだからだ。
少年は身支度をして天幕を出ると、まだ昏い未明の空気に身震いをした。吐き出した息が白く染まっている。夏だからといって、寒暖差の厳しい荒れた土地柄には関係ない。
狭い丘に並べられた天幕の群れを避けながら、少年はその頂を目指す。砂が裸足に食い込み、乾燥した肌を痛めつける。だが既に岩肌のように固くなっている足の裏から血が出ることはなく、ただ、不快なだけだ。
「おう、レオン」
火の番の男が、少年―――レオンを見つけて軽く手を挙げる。
「―――なんだ、早いな」
レオンは会釈もせず、焚火を挟んで男の正面に座る。この男は好きではなかった。
彼の姉代わり―――いや、師に幾度となく言い寄っているのを見たことがあるから。もちろん、彼女はいいようにあしらっていたけど。
「何か、話せよ」
レオンは黙して、火を見つめている。
男の舌打ちが聞こえる。ほぼ同時にレオンは顔も上げずに首を横に傾けた。避けた空間を、男が投げた薪が通り過ぎていく。
男がまた、舌打ちをした。
「おまえの変な感覚、便利だよな。片目見えてねえくせによ」
男の苛苛とした気分が伝わってくる。
レオンはちらと丘の天幕を見た。
そろそろ、ルミネも起きてくるころだろう。
「ホントにつまんねーガキだな」
減らず口に背を向けて、レオンは彼女を迎えに降りていった。
―――死者を天に送る煙は、視界の隅でまだ消えてはいない。
ぱきりと、水を失った木の枝が鳴る音。
レオンはそれで、自分が今眠っていたことに気づいた。
―――随分古い記憶を、夢に見た気がする。
身じろぎしようとして、胡坐の上に何かが乗っていることに気づいた―――否、彼が抱きかかえていると言った方が正確だろうか。
レオンの右肩に頭を預けるような姿勢で、アリルが寝息を立てている。
かなり密着した体勢に、レオンの眉が曇る。なんだ、なんでこんなとこで寝てんだ、コイツ……。
彼らの他に、林の中に人はいない。ハイ・ラガードからエトリアに帰る二人旅の途中だから当然だ。目の前には火の消えた焚火跡がある。休む際消したものだ。
しんと冷えた空気が、レオンの鼻先を風として通り過ぎる。
おぼろげながら、段々と眠る前の記憶が戻ってきた。
そうだ、火を消すと寒くて眠れなかったから、寄り添って寝ることにしたんだった。
―――改めて考えると、いくら眠かったとはいえ、二人ともあまりに何も考えてなさすぎである。
何の欲より睡眠欲が強すぎて、いまだにこの姿勢でもレオンに妙な劣情が湧いてくることはないが、朝目覚めたときには保障できない。とりあえず、アリルが先に目覚めて、とっとと離れてくれるのを祈るばかりである。
自分から離れるのは―――まあ、今はまだ夜明け前で寒いし。
何より女の柔らかさと温かさが、久しぶりすぎて心地よくて。
よく分からない自分への言い訳を考えていると、また瞼がどんどん重くなっていく。それに逆らうことなく、レオンは再び眠りに落ちていった。
訪れた砂と土の街で、出会ったのは菫色の瞳の少女だった。
靴磨きをする少女だった。隊が駐屯するための手続きを取る短い時間だったが、自由をもらったレオンは彼女と、その仲間の孤児たちとうちとけ、仲良くなった。
「やっぱりまだ子供ねー」
宛がわれた今晩の宿に向かう道中、菫の少女に貰った押し花を見つめていたレオンにルミネがそうからかうように言った。
むっとして顔を上げ、レオンは言い返す。
「おれは子供じゃない」
「子供じゃないんだったら、お仕事できるわねー?」
にやりと浮かんだ笑みに、レオンはしまったと思いながらも、その表情を隠すように小さく舌打ちした。
“仕事”自体は、最近よくやる手口だ。
ここは紛争地域だ。そのためまず、襲撃を警戒している富裕層の屋敷に、臨時に雇われる。今レオンが行動している隊は少人数からなるいわば陽動隊で、遅れてくる本隊が街、ひいては雇われた屋敷に入り込むための糸口となる。
陽動隊は傭兵の形式を取っていないこともある。今回もそのケースだった。
戦時でも女を買う需要は多い。今日の屋敷に行くのはルミネと、その小間使いとしてのレオン、二人きりだ。
「じゃ、ここで待っててね」
ばたんと大きな部屋の扉が音を立てて閉まる。しめ出されたレオンは、扉の正面で蹲った。下卑た話題を雇われ兵士が振ってくる。そのうち部屋から嬌声が聞こえてきて、男どもはにやついた笑みのまま、黙りこんだ。
部屋は一つではない。いくつもあるうちの一つに耳を当てていた兵士が、おい、とひそやかに皆を呼んだ。
「ここ、穴から見えるぜ」
お楽しみの最中を覗こうというのである。気の乗らないレオンすら、静かに興奮する男どもに穴を覗くように強要される。
大きなベッドで、腹の出っ張った汚い裸のオヤジが一心不乱に腰を振っている。
女の子ならとにかく、おっさんを見る趣味はない。目を背けようとして、レオンは彼に組み敷かれている少女に、乾いた声を漏らした。
彼女の瞳は、菫色だった。
夜が長いと感じたことは久しくなかった。
嫌な夢を見て目が覚めることがなかったからだとも言い換えられる。未明に目が覚めたレオンは、そのまま寝つけずに、かといって動くことも出来ず、じっと目を閉じていた。時折あぐらの中の少女がむにゃむにゃ呟くので、早く起きないかなあとか考えることもあるが、なかなか眠りが深いようだ。なんというか、この娘は男に警戒心がなさすぎるだろ……。
自分の心に線引きをして、その内側に彼女が入り込むのを、レオンは許した。
何故そんなことをしたか?
―――多分、人並みになりたかったからだ。人並みに誰かを愛して、そして愛されることを受け入れたかった。陳腐な望みだが単純明快に“生きる”という人生の目標以上に、それは尊く得難い。
“人並み”、それがこの少女によって可能となるのか、それはまだ分からない。
これも今なら素直に認めることが出来る。
今すぐに結論を出すには、彼の人生には欠落したものが多すぎる。
「現実を見なさいなー」
娼婦の女に言われてしまえば、レオンの落胆なんて塵屑のようなものだ。
少女を買った富裕層は、レオンの所属する傭兵隊によって蹂躙された。丁度襲撃の夜は、同じように享楽の宴が開かれていて―――その女たちが荒くれた傭兵たちの手に落ちてどういう目に遭ったか、考えたくもない。
「中途半端に感情移入しないで。でも、あいつらと同じになる必要もないわー」
「どうすりゃいいんだよ?」
「自分で考えなさい」
しょっちゅう言われる言葉だ。“自分で考えろ”。だが、一方的に問いだけ示されて答えがないのには、困る。
「あの子、どうなるのかな」
ぽつりと呟けば、ルミネはにっこり微笑んで、自分を指さした。
「こうなるのよ」
それは最悪のパターンだろ。
言葉にはしなかったはずだが、脳天に落ちた拳のおかげで目から火が出た。
傭兵隊は居心地がいいところじゃなかった。
目を閉じていることすら諦め、レオンは木々の隙間から藍色の空を見ていた。夜明けが近い。それでも、少女はまだ起きる気配がない。
ずっと動けないので身体は痛むし、眠気はあるのに眠れないし。
なのにもう少しこのままでいたいと思う自分もいる。
なんとなく、クッククローにいた頃に感覚は近い。
その日もとても寝られたものではなかった。
何故だかは覚えていない。とにかくとんでもなく寝づらくて、ルミネのところに行った。幸い彼女も誰の相手もしていなくて、かといって自分の相手をしてもらうには寝床があまりに全員で固まっていたため、街外れの丘、木々の生い茂る森の中へ行くことにした。誰かに見つかれば、タコ殴りに遭う。それくらい、ルミネは隊ではもてはやされ、レオンの地位は低かった。
とはいえ、もうただ殴られっぱなしの子供ではなくなっていたのだが。
侮れば手痛い反撃に遭う。レオンに対する目は明らかに犬の子から、狼の若者に変わっていっていた。だがレオンとしてもそれは微妙な立場の転換点で、もし調子に乗った態度に出れば粛清されるのは目に見えていたからだ。謙虚にしつつも、自分の立場を高めていかねばならない。
ルミネに相談に乗ってほしかった。
久々に彼女を抱いたのは、そんな夜だった。
「……おい」
眠っていても研ぎ澄まされているレオンの感覚が、それに気づいた。
草むらに外套を広げて眠っているルミネを揺り起こす。どんどん近くなるそれは人間の気配、それもひとりではない。
傭兵隊の人間かと思った。それはそれで、ルミネと一緒にいるところを見つかれば厄介なことになる。考えた挙句に、レオンはルミネを連れて近くの木に登った。今思うとそれがなければ、二人とも死んでいただろう。
木の下に現れたのは、敵軍の兵士だった。
そして間もなく、ふもとの街―――傭兵隊を標的にした、焼き討ちが始まった。
幾度となく木を降りようとしたルミネを抑え、兵士たちが木の下、丘から完全に去ったのを気配で悟ると、彼女を残して木から降りた。木の上からも見えた、煌々と燃える炎。光の全てに、焦げ臭いその内側に、のみ込まれていく命と悲鳴。
誰も助かるまい。
丘の上からははっきり見えた。火にまかれて家から飛び出してくる影、空気を失い倒れ伏す人、折り重なっていくそれら、それらを呑み込む炎。
―――ざまあみろ。
いつしか、レオンの口角は上がっていた。
空気と同じ、乾いた笑いが口の端から漏れる。抑えきれぬそれはひきつった波となって、唇を割った。哄笑。
ざまあみろ。
姉を呑み込んだものと同じ赤い炎が、今度はそれを放った連中を呑み込んでいく。
燃えろ。
燃えて、全部灰になってしまえ。
ここからすべてがなくなってしまえばいい。
もう誰も、思い出すものがいなくなるくらいに―――
家族を救えなかったこと。
恨みの気持ちを拭うことが出来ず、仲間として受け入れられなかった傭兵隊を、二度と修復できない形で失ったこと。
二度とも死ななかった、自分。
―――生きるなら。生きなければならないのなら、その意味は一体何なのか?
世界樹の迷宮で出会った人々を、仲間として守りたいと思うようになった。
だが彼らはそれぞれの道を選んで、やがて袂を分かつ時が来る。それを否定する気持ちはなく、むしろ祝福したかった。
でも、そのあと俺はどうなるんだろう?
また、あてない旅に出るんだろうか。
光。
「あ、起きた?」
少女の声に瞼を開ければ、彼女の温かみは膝の上にはなかった。
しかしすぐ側、レオンが寄り掛かる木に同じく身を任せるような形で、アリルがちょこんと座っている。
「あの、朝ご飯の準備とかしたかったんだけど、その」
朝日のせいか顔を赤らめながら、アリルは俯き気味にレオンの片手を指した。
左手はがっちりと、アリルの手首を掴んでいた。
「は、離してくれるとうれしいなー、なんて」
「悪ィ」
ぱっと手離せば、曖昧な笑みで少女は訊いてくる。
「よく眠れた?」
「……おかげさまで。おまえもよく寝てたな」
「あ、あんまり」
ぱっと背を向けて、昨日のうちに溜めていた水を一口含むと、アリルはせせこましく朝食の準備を始める。
まだぼんやりと座ったまま、レオンは思考に耽っていた。
エトリアに繋がる街道にはまだしばらくかかるな、とか。この辺りは最近まで戦争してたから、道をショートカットするにもなるべく大通りを行った方が野盗に遭いにくい、とか。
後金の話を、いつ切りだそうか、とか。
前々から思っていたが最近確信がいった。
アリルは鈍い。こと、自分に向けられる感情に関しては。
「ねー、火を熾すの手伝って」
「火種あるだろ?」
「あるけど、点かないの!」
薪が湿ってしまっている。乾いた枝を探してきて積み上げながら、レオンは声をかけた。
「なあ」
「何?」
「お前は、俺の何が良かったんだ?」
仰け反るアリル。
「な、なんなの、突然……」
「いや、何となく」
視線を彷徨わせ、アリルは眉を下げた。
「答えなきゃダメ?」
「嫌ならいい」
「い、言いたくない」
「じゃあいいや」
とりあえず、“何か良かったところがあったらしい”というのが分かっただけでもいい。
ところが、アリルは続けてきた。
「助けてくれたり、とか」
「仲間だしな」
「あ、アリのときとか。すごいな、って思ったし……」
「言ったろ。キタザキ先生に殺されると思ったんだよ」
「あとは……か、か、かっこよかった」
「はい?」
アリルは何故かキッと睨んでくる。
「なんでこんなこと言わなきゃいけないのよ」
「嫌なら言わなくていいっつったじゃん。答えたのお前」
「もー!」
顔を覆うアリル。
レオンは何とか火を点けることに成功する。
「……レオンこそ、どうして私についてきてくれたの」
「そう来るか」
「うん。だって……私のこと、別に、好き、でもないのに……」
自分で言いながら落ち込んでいく彼女を眺めつつ(表情がころころ変わるのが面白い)、レオンは淡白に答えた。
「大丈夫だなと思ったから」
「え?」
「俺は悪運が強い方でな。あんまりまっとうな生き方をしてきたつもりもない。これからも多分そうだ。一緒にいる人を巻きこむこともあるだろう」
「だ、大丈夫って」
「“私はそんなに簡単に死なない”っつってたろ。なんか納得したんだよな。それで、おまえは大丈夫だと思った」
「……よく分かんないよ」
「俺もうまく説明できそうにない。ただ、誰でも良かったわけじゃない、というかおまえがおまえでいてくれて、丁度良かったんだ」
言いながら、さすがに恥ずかしくなってきた。
「あと、別に好きでもないってのは、違うぞ」
火を挟んで、アリルは俯いたまま黙り込んでいたが、ぱっと顔を上げるとことのほか真剣な顔でこう言ってきた。
「ねえ」
「ん?」
「あのね、良かったら、だけどね……今すごく、抱きつきたいんだけどいいかな」
「何じゃそりゃ」
「ふふ」
腕を伸ばして引き寄せれば、少し恥ずかしそうにしながらも、アリルの頬が胸に降りてくる。
じんわりと心臓付近に、夜に感じた柔らかい温かさが戻ってくる。
生きていてよかった。
目指すところへは少しずつでいい、これで良かったと思えるように、これからも生きていこう。
旋毛に唇を落とせば、二人同時に腹が鳴って、なんだか笑けて仕方がなかった。
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